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ブログの再開、実母の末期がん発覚と入院まで [雑談]

まだこのブログに立ち寄ってきてくださる方がおられましたら、「お久しぶりです」!

まあ、なんとか身辺整理も進んできて、落ち着いてブログを書こうという気に成ってきました。

昨年8月に実母の末期がん発覚以来、自体が急速に進行していきました。

担当医の見立ては「早ければ年内に」というお話が最初から飛び出して、事実その通りに成り、12月6日に西方浄土に帰らぬ旅に出てしまいました。


その間あまりにいろいろな事が、振り返る暇もなく自分に降りかかり、とにかく平常心を心がけて事に当たってきました。

まあ、自分としてはこの事を振り返るつもりは毛頭ありませんが、とにかく何があったかは纏めておこうという事に成り、長らく休止中のブログの再開と相成りました。


相変わらず長文で無駄にクドイ表現の記述に成りますので、真剣に読んでいただけないとは思いますが、おそらく同じ境遇の方が困っていると察しますので、幾何かお役に立てればと、何があったかを書き綴ってみます。



◆新型コロナと肺がんの発覚・進行について

肺がんの自覚症状として、痰が出るとか胸に詰まりがあるとかは1か月ほど前からあったようですが、コロナの感染をきっかけに一気に症状が進行して、総合病院で検査しようという事に成りました。

固形物が取りにくく、食事が滞っていた事も有り体力が落ちていたのでそのまま入院という事に成り、改めてPCR検査で陽性反応がでたので、まずコロナでの隔離入院が必要になり、2週間の経過観察の入院と癌の精密検査を行いました。

とにかく最初の検査で肺のレントゲンの右下に7㎝程度の癌の影が映っており、ほぼ末期の「ステージ4」は確実視されていました。


しかし、一昨年もコロナ感染の疑いで呼吸器科の医院でレントゲン撮影にわずかに影があり、がんの疑いありという事で血液検査を行いましたが、その時点では「シロ」でした。

自覚症状の件なども考慮に入れると、急速に悪性腫瘍が拡大したことになり、あり得ない事例ではないとしても、余りに早すぎることが疑問でした。

まあ、巷ではコロナの後遺症やワクチンの影響とか色々言われていますが、その他の症状等を考慮すると、実母は確実に免疫が低下していたようです。


◆終末医療の選択

検査入院後、体力がやや回復したので2週間自宅で様子を見るという事で、別の医院で「PET撮影検査」を行い、肋骨に転移が認められた事と、後の検査で肺の癌腫瘍が壊死して右肺全体に癌細胞がばらまかれている事が発覚しました。

その時点で、高齢で体力が落ちているので、摘出も抗がん剤の治療もできないという事に成り、インターフェロン系の投薬も抗体の適合性が無く万事休すという事で、治療や延命措置をせず、痛みだけを抑えて穏やかに最期を迎えるという「終末医療」の方針が決まっていましたが、様子を見てから検討という事で自宅療養を続けました。


◆自宅療養の限界と、要介護認定

実はこの自宅療養が大変で、一応寝たきりでは無いので所謂「下の世話」がないのが唯一の幸いで、何が困ったかと言えば実母の生活習慣の乱れと食事の我儘が強すぎる事でした。

とにかく勝手な時間に寝て、夜中でも起きてゴソゴソするなどで、通常の時間での3食の時間に起きていないときが多く、食事の世話をする方とすれば「怒り心頭」でした。

おまけにほとんど猫のように(苦笑)「気に入らなければ、具合が悪ければ餌に口もつけない」有様で、体の為に必要なカロリーや栄養素を取らなければいけないという概念を持っていない事もあり、固形物が食べられないと用意した流動食を受け付けない事が増えました。


おまけに決められた薬を飲まない事の方が多く、飲んだとウソをついて枕元に隠していたりと、正直何でこんなクズの面倒を見なければいけないのかと、自分の精神崩壊しそうになってきました。


そんな時、我が家のかかりつけ医に、定期的にもらっている薬を取りに行ったときに、実母と自分の様子を見て「このまま息子さん一人での介護は限界で、早急に要介護認定を受けて介護ケアを受けるべきだ」というありがたいアドバイスと、関連部署への根回しをしてくれたので、地元の「包括支援センター」に行き、要介護認定の手続きを進めました。


手順としては、包括支援センターに申し込んで、介護認定の査定を専門の人間に依頼、要介護の等級が決定次第、その等級の援助内容にあった介護プランを、指定された介護プランナーが選定して、各種サービスが受けられるという感じです。

ま、これは悪口ではないのですが(笑)、なにせ「お役所仕事」なので、此方の都合で動いてくれることは無く、事務手続きの手順を順当に踏んだとしても時間がかかることは事実で、必要になるはるか前の段階で手続きを進める必要があり、実は我が家のケースもサービス認定は入院の後に決定通知があり、医療行為の入院の場合介護保険からの支援は無く、要するに「間に合わなかった」わけです。

 

実は3年前に痴呆の症状を拗らせて親子関係が崩壊しかけたときに、要介護を受けようとしましたが、実母が意固地になり認定を受けられなかったという経緯も有ったのですが、この手の話は珍しい事ではなく、介護する家族をとことん追い詰めているんですよ。


さてその後結局如何なる食事も投薬すら受け付けない実母に対して、完全に堪忍袋の緒が切れて、自分自身が介護することを放棄することにしました。

こう書くと自分は余程酷い冷血漢にしか見えませんが、実はここで真面目に自分ですべて解決しようと思い込む事は大変危険で、よくて親に暴力を振るうようになるか、悪くすれば「一家心中」などという悲劇に向かって一直線に成ってしまいます。


まあ言葉通りに放り出す訳では無く(苦笑)、担当医の指示で食事を受け付けなく成ったら入院させてくださいという指示に従ったわけです。

これも困った老人看護あるあるなのですが、家族の言う事はミジンコ程も聞かないくせに、医者のいう事は淡々と従うという、家族からすればウンザリするような親は決して少なくないようです。

 

そして入院前に、親戚と知人に連絡して「本人最後の面談」の段取りを付けました。

ご存じの通りコロナ禍の中、ほとんどの病院は「面会不能」状態であり、お見舞い出来ない以上、入院すれば次に会えるのは良くて「臨終の際」という事に成り、まだ意識があって会話ができるうちに自宅に来てもらって、最後の面会をしてもらいました。


親戚達にも余命が年内という事で説明して来てもらいましたが、当の本人は「ただ風邪ひいただけだし」と強がりなのか見栄なのか、来てもらった親戚が当惑する始末で、特に実弟はお別れに来たのになんだ!あの態度は激怒して帰ってしまう始末で、まあ本当に居るだけでトラブルの面目躍如のフィナーレを飾ってしまいました(苦笑)。

 

入院後はモノが無いと喚くは、夜中に苦しいとナースコールも使わず騒いで個室に強制送還されるはで、ほとんど最後の悪あがきを繰り広げておりましたが。


◆終末治療専門医院への転院

その間も終末医療を行う医院や施設を選定していただき、転院に備えましたが、栃木県で末期がんの終末医療を専門に行っている大病院は「済生会病院」と「国立がんセンター」しかなく、またこちらはもっと重篤な症状、要するに痛みがひどく本人がかなり苦しまなければいけない患者が優先されるそうで、実母の場合そこまでの痛みを伴うことなく、呼吸が徐々にできなくなってくる苦しさがメインに成るようでした。


そこで、広義の終末医療を受け入れているる医院や施設・・・・・まあ口が悪い人に言わせれば「現代の姥捨て山」と揶揄されていますが、治療行為をせず穏やかに最期を迎えるための処置、ハッキリ言えば痛み止めやモルヒネなどを使って、胃ろうや人工心肺装置などは付けず、心肺停止による蘇生処置もしない医院を選抜してもらい、実母の生家のすぐ近くで、通っていた中学校の目の前、更に自分の親の墓地が目の前にあるという場所の医院を、最期を迎えるのにふさわしいという事で選ばせてもらって、そこに転院する事に成りました。


転院の手続きで久しぶりに顔を合わせて・・・というより、おそらくこれが最後の会う機会に成りそうでしたが、此方は手続きで忙しく、特に感慨がわくことは無かったのですが、実母は転院する病院が、自分の両親も入院した病院で、自分の最期を迎える病院であることは理解しており、別れ際は気のせいでなければ目が赤くなっていたと思います。


なんというか話が湿っぽくなってきましたが、実はここからが自分にとってはまさしく「悪夢」で、思い返したくない程の苦労が待ち受けているのでした。


続きます。






 





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