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ブログ再開、4度目の人生の大きな節目を迎えて [雑談]

さて、そろそろタイトル通りの「楽しい自転車生活」をお送りしなければ、タイトル詐欺ブログに成ってしまいますね(苦笑)


自分の場合今までの人生を振り返ると4回の大きな変節点がありました。

1、9歳、実家の事業失敗による暗転

これは本当に自分のせいではない、今風に言うと「親ガチャ案件」です。


両親は自分が生まれる前から喫茶店を営んでいましたが、父親が共同事業者とボーリング場を開いて失敗し、故郷から何度か引っ越したあと、新規の事業展開もうまくいかず、オマケに保証人に逃げられて多額の借金を抱える事に成りました。

更に実父の不倫事案で夫婦仲が冷え込み、借財の事も含めて、毎日激烈な夫婦喧嘩が絶えず、更に不倫した相手の男が怒鳴り込んできたり、家の立ち退きを要求されたりと、いきなり9歳を境目に人生が暗転していきました。


正直もっといろいろ酷い事があり、自分は今でいう不登校や、学校の担任のモラハラなどに会い精神的にもどん底に追い込まれて、実はそのころの記憶が、かなりの部分欠損してしまいました。


正直よく生きていたし、グレ無かったなぁと自分でも思います。

高校の担任に詳細を説明したとき、驚愕の表情で「お前のような奴は、物凄い不良になるか、親を見返そうと奮起するかどちらだが、普通に平気な顔をして生きている奴見た事が無い」と言われたことがあります(苦笑)


まあ、かなり早い時点で「この親に頼っていては命が無い、自分の事は自分で何とかしよう」と、問題解決のための方策を、学校の勉強そっちのけで(笑)学校や地域の図書館で調べまくったり、同じような境遇の親友たちと、夜を徹して討論したりして、答えを探していました。


また、当時としては珍しかった、「アニメ特撮オタク」に成っていましたので、これも今でいう「中二病」の元祖のような存在になっていました。

今でも「宇宙戦艦ヤマトと機動戦士ガンダムの生放送の第一話を見た」を自慢の種にしているくらいですから、かなり重症の中二病患者でしたね。

これも今風に言うと完全に「黒歴史」ですよね(笑)


専門学校時代は千葉県の柏市の学校に行くため、流山市に一人暮らししていましたが、実家を離れて家事を考えないで良い時間は、自分にとって「至福の時」だったと思います。友達にも恵まれて楽しい学生生活・・・・と行かないところが自分の難儀な星回りで、とある問題人物が自分たちのゼミに在籍していて、ゼミ全体をかき回して大問題となっていて、自分もその当事者の一人だったので、その対応と解決に1年以上費やす羽目になり、いやホントに毎日大変でした(苦笑)

その人物は、今風に言えば完全にADHD(注意欠如・多動性障害」で社会性が無く、重度の虚言癖があり、自分を被害者に見立てる事で周囲の関心を持とうとするタイプで・・・・と後に気が付いたのは「自分の母親と実は全く同じだった」という事で、自分は常にこの手のタイプの人間に人生を捻じ曲げられつつ、抵抗して戦ってきた人生だったんだなぁと、深いため息が出ましたね。


2、20歳で社会人へ、住宅会社の営業職へ

なんとか未成年時代は乗り越えて、地元の住宅会社の営業職に就職することが出来ました。

これも、学費を稼ぐため住宅会社の現場作業の肉体労働のバイトを通じて、その会社に認められての正規社員登用でしたが、採用理由が「あんな辛くて儲からない仕事を真面目に務める忍耐力は、ヤクザな営業の業務に耐えられるだろう」という事だったと後で聞いたことがあります(苦笑)


しかし、本当にこの仕事は辛かったです。

今から37年前の1980年代後半の頃ですから、週休二日などは無く朝は8時から夜は23時まで拘束され、週一の休みもお客さんに呼び出られ、オマケに社会人一年生なのに「お客様の人生を左右するのが住宅計画です」などしたり顔で、平気で自分の2倍以上生きたお客さんを相手にして、そのころはノルマが「半期で6棟1億円」でしたので、本当に大変でした。


しかも、最初に配属された営業所の上司がパワハラ野郎で、営業所全員が苦しんでいるような状態で、深夜にクドクドと嫌味を言われ続けてついにブチ切れて、ケンシロウの様なオーラ出しながらぶん殴ろとして、先輩の空手の有段者に羽交い絞めされて止められたという事件がありました。

その時の上司の「あんなクダラナイ奴手を出して犯罪者に成ってもつまらないゾ」という言葉は、以後自分が無事に社会人として生きていける為の「金言」となりました。


まあ、そんな事も有りましたが「石の上にも3年」を心に決めていたので、一人前に成るまで辞めないと、ある程度成績が出せるように成ってから5年勤続して、26歳で自宅を建ててから、一昨年まで勤めていた自動車関係の会社に転職しました。


3、自分の趣味を仕事にして

物心ついたころから自動車が好きで、子供の頃は「カーグラフィック」「オートスポーツ」を愛読書にして「サーキットの狼」「スーパーカー」の洗礼例を受けた世代ですから、車に乗るのが大好きで、本当は高校進学の時に工業系や自動車整備専門学校を受験しようとして、両親の理不尽な大反対で未来の夢を断たれたという反動から(笑)、地元にある自動車会社のテスト業務を委託されている会社に転職しました。


職種としては「テストドライバー募集」という魅力的な内容がかえって怪しく(笑)、会社説明を受けたら「まあ、普通免許があれば・・・」という頼もしい説明にかえって疑心暗鬼になりましたが、委託先の企業と同じ就業形態という事で、週休2日はおろか年間休日も120日あり、オマケに有給休暇が完全取得が絶対という、まるでおとぎ話のような世界(笑)の魅力には勝てず、年収が半分になる(!!!)事など気にもならず転職しました。


実際の業務は自動車の耐久性試験で3交代でコースを走らせる「夜勤勤務」が主体で、その車の整備や点検、データ計測、車両の分解組み立てなど、文系人間で、実際車の重整備などしたことない自分には大変な事も多かったですが、委託先の企業はまだその時代は家族的なところがあり、委託や請負の社員であっても「面倒見る」文化が残っていて、色々な事を教えてもらったり、勉強する時間や機会も設けてくれたりと、自動車や機械工学の基礎、金属工学など、以後の自転車の整備などをに役立ちました。

まあ、結局早期退職するまでこの会社でお世話に成りましたが、この会社にいて本当に良かったのは、多くの仲間に出会えたことだと思います。


4、生涯を共にする自転車の生活を得る

まあ、その仲間を得ることが出来たのも、自分が子供の頃から大好きだった自転車趣味を再開させたからです。

とにかく、物心ついた時から目の前に現れる「不可解で理不尽な難儀」を、撃退するだけで精一杯で、正直なところ人生の目標とか夢を実現しようとか、自分自身の将来の事になんの希望も持てない人間に成っていました。


その結果としての自分自身の健康管理の概念が無く、ストレスからの暴飲暴食、偏った食生活、睡眠時間の不足、運動不足がたたっての肥満や生活習病のオンパレードとなり、30代後半の頃には何時突然死してもおかしく無い状態と会社の健康診断で指摘され、とどめは2度ギックリ腰を発病させたときに担当医の方に言われた言葉でした。

「このままの体重だと、膝の故障もありますし50代になったら確実に歩けなくなりますねぇ」ニコニコしながら宣告されて、この時は心の底から戦慄を覚えて全身が凍り付いたことを覚えています。

自分は「結婚をするつもりが無く、老後は確実に「独居老人」に成ることがよそうされて(結局その通りに成りましたが)、誰に頼る事も出来ないとあれば

自分の健康、とくに自分の足で歩けることは最低限の必須条件であり、ここにで初めて自分の将来の為にダイエットで体重を落として健康な体を確保するために、本格的に自転車で運動する事に成りました。


ダイエットのために週末にはクロスバイクに乗るようになっていましたが、これを機に往復20㎞の通勤も自転車に切り替えて本格的に乗り込みました。

週末も乗る距離を徐々に増やしていき、100㎞乗れるように成ったころ、自転車雑誌で160㎞の距離を走る「センチュリーライド」と、新潟市の佐渡の島一周210㎞走る「佐渡ロングライド」の存在を知り頭から離れなくなりました。


そのころ職場の同僚とクロスバイクでサイクリングしたり、エンデューロレースに出たりと徐々にのめり込んでいきましたが、このロングライドを行う事が目的に成り、ロードバイクを購入して装備を整えたりトレーニングをいろいろ工夫していったりとした結果、気が付いてみると何の生きる目的もなく根無し草のように生きた自分が、初めて生きる意味を持つことが出来ていました。

以後はこのブログを開設してから書き込んできた通り、自転車中心の生活をしていました。



5、新しいステージを迎えて

そして、定年3年前に早期退職し、母親を見送って完全に独り暮らしとなり、ある意味今までと全く違う、ほとんどすべてが自分の都合で動ける人生が、正直「始まってしまった」という所です。

 

実のところ、いろいろな選択肢が想定されていますし、そのどれを選択するのも自分の判断次第なのですが、大きく分けると

1、現状の延長で今の住居と人間関係を継続させる

2、見たことのない風景を求めて、別の場所に転居する

となりますが、慌てて動くとロクな事が無いですし、とくに期限がある訳でもないので、変に義務感に駆られてとかなく、自然体で考えて行動していこうと思っています。

 

一つ言える事は、このブログをアップして意向、もう自分の過去のネガティブな部分を振り返ることはしないということです。

その決意をはっきりさせるために、今回恥を忍んで(苦笑)色々と書き綴りましたが、これをもって次回の記事より元の「楽しい自転車生活」応援を中心としたものを書いていきたいと思います。





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ブログの再開、自宅の整理と実母の葬儀、相続について [危機管理]

実母の余命は年内との担当医の診断を聞いて、自分は迷わずその場で実母に全てを告知しました。

「残酷な」という意見もあるでしょうが、かのブラックジャック先生も「告知して希望を失うような患者の相手はしない」主義でしたので(苦笑)淡々と事実を告げましたが、拍子抜けするほど「無反応」で強がりなのか絶望したのかは知りませんが、残念ながらそんな本人を心情を斟酌しなければいけない程、此方も暇ではありませんでした。


◆何より肝心な予算管理

まず、入院前に実母の預金通帳、印鑑カードを引き取りました。

こんな時にお金の話とは思われるでしょうが、「地獄の沙汰も金次第」ではありませんが、一番面倒なのは最期を迎えるにあたっての経理なんです。


とにかく、お金が出ていくは出ていくは!、入院費、備品購入、介護食、介護備品購入など、羽が生えたようにお金が飛んで行きます。

そして何が一番手間と費用が掛かったかというと、それは自宅の整理に関係したモノでした。


◆半ばゴミ屋敷化した自宅の再生

実母が病気になる前からの事ですが、清掃能力が完全に欠落していて、大掃除など自分がやっていたのですが、とにかく実母の動く範囲には膨大な日常品と称する「タダノゴミやガラクタ」が、遺跡のように蓄積されており、最初の検査入院の時には、リビング回り、キッチン、実母の自室などを「なんとか人間が普通に暮らせるように」清掃するのに、2週間ほどかかってしまい、出てきたゴミは、優に軽トラ一台分はありました。


床も汚れているを通り越して、ごみや埃が堆積してドロの層が固まっており、その撤去や、ごみの中から明らかに未使用の健康食品やサプリメント、化粧品、電気製品を分別して再利用できるようにするなど、とにかく説明しきれない程ひどい状態の回復に奔走させられました。



特に酷かったのがキッチンと一坪の食品庫で、もはやそこは腐った食材と製造年度不明の瓶詰めと焦げたり錆びたりしている鍋や釜、これまた未使用の膨大な食器が、所かまわず積みあがっていました。

 

最初錆びた瓶のふたを開けて、腐った中身を捨てて、瓶を洗ってと分別を進めていましたが、2時間ほどでゴミ袋4つも出来上がり、それでも変わることのない眼前のゴミの山を目の前にして、心を病んでしまいました(苦笑)


こんなことしていたら、自分が病院送りに成ってしまうわい!と、さっそくネットで「家屋の清掃業者」を検索して、専門の業者に依頼してしまいました。

その業者は、いわゆる「ゴミ屋敷」や「独居老人の死亡案件処理」も引き受ける専門業者で、埼玉の方から来ていただきましたが、そんな専門家が見積もりに来て現状を見せたところ、5秒ほど立ち尽くしてポカーンとしていた後に「この清掃は、完全に特殊事例に該当しますので、費用が掛かることはご容赦いただけますか?」と言い出しました(苦笑)

また「これは一人で何とかしようとしてはいけない案件です」とまで言われて、ある意味納得の上で依頼しました。


しかし、今回の事で、介護・医療関係者や、同じ境遇の方々とお話しする機会がたくさんあったのですが、どうもこの「ゴミ屋敷製造老人」は、決して珍しい話ではなく、意味もなくモノを買い込んで、使いもせずゴミを増やすというのは、個人というより「世代の持つ精神的な病理」と言えるもののようです。
で、結局5人ほど来ていただいてそれらのゴミの分別や廃棄、敷地内に転がっているゴミのをまとめると、2トントラック2台分のゴミが出てしまい、オマケに食品が腐敗していたためその清掃と、そこにネズミや害虫が発生していた事も有り、別の駆除業者に、家全体の徹底駆除と消毒も必要となり、費用総額は優に三桁諭吉様に達してしまいました(泣)
そのうえこれでもまだ、実母の自室の清掃とゴミの廃棄が別にあるという始末で、ありがたくないというより、非常に厄介な「遺産」と言えるでしょう。
ここで「遺産相続」に関してですが、一般的には被相続人の資産の相続という「ボーナスポイント」的な受け取り方をされていると思いますが、自分はその考え方が大嫌いで、相続人は、被相続人の「人生の正負を全て受け継ぐ」べきものであり、それらをひっくるめて「ドンと来い!」と肝を据えてかかる覚悟が無い人間は、欲に駆られて身の丈以上の相続を欲すると、「身の破滅」に繋がるという事は、間違いが無いことだと自分は思っています。
さて、実質10月から2か月ほどこの整理に忙殺されていました。
まあ、何処かに遊びに行こうと思えば行けない事もなかったのですが、何時「ご家族をお集めください」という、「危篤の連絡」が病院からいつ来るか分からないうえ、他の親族は間違いなく間に合わないので、自分は出かけても1時間以内で病院に駆け付けられる事が大前提でしたので、ロードバイクでのロングライドは封印となり、7月末からこのブログと共に「封印」していました。
◆臨終と葬儀
終末医療医院に転院して1か月たった12月に入り、病院より「心拍が安定しないので急いで来てください」とあり、その日は大丈夫だったのですが、駆け付けて面会した時が最後となり、翌日息を引き取りました。
結局最後はだれも親族に看取られることなく、突然心拍が弱って自分に連絡が来てから5分後には、心拍停止で死亡が確認されました。
生前は賑やかな実母で、親族や知人もたくさんいたはずなのですが、コロナの影響もあり面会が制限されているとはいえ、誰に最後の挨拶をするでなく、「だれにも知らせないでくれ」と言い出して、まあ自分に言わせれば勝手に旅だってしまった事は、本人の本音や心情はともかく、今まで生きてきた関わり合いを自分から断ち切って、誠に自分勝手に自分の人生を閉じてしまったわけで、生前より「一人称人間」で、すべてが自分しか無かった人間の最後としては、それにふさわしい寂しい最後だったと言えます。
 
勝手に旅立つのはまあ仕方ないとして、残された人間はそうはいかず、やるべき事が山のように残されています。
此方も初めてではないので、戦闘モードに突入すれば済みやかに作戦行動に移行し、お恥ずかしい話、「危篤」の報を受けて病院に向かう間に登録して会員になっている(既に4回利用しているお得意さん)葬儀社に遺体の引き取りと葬儀の段取りの連絡をして、臨終を確認後は速やかに近い身内から順に連絡を取り、葬儀に向けての準備を進めます。
全くまるで全てが計画されたように行動していて、1週間前には喪服もクリーニングに出してあったとは、これが不審死なら間違いなく「容疑者」として取調室に連れていかれていましたねぇ(苦笑)
臨終後2時間で葬儀社に遺体を引き取ってもらい、葬儀日まで予定の式場で保管してもらいます。
以前ならまず自宅に一度搬送して葬儀日を待つという感じでしたが、最近は葬祭場も霊安施設などがあり、遺体の腐敗処理(エバーミング)や化粧直しなどを行って、葬儀場で何時でも関係者が面会できるようにしてくれます。
葬儀の日程は主にその地域の「火葬場」のスケジュールが優先され、時期によっては混みあう事も有り、大安や友引を避けたり、土日に集中したりと思うような日程が取れないケースもあります。
自分の場合以前12月28日に叔母が死亡したときは、焼場も公共施設で既に休みに入り、しばらく葬儀が出来なかったなんて事も有りました。
また居住地域以外で死亡した場合なども、基本的に火葬場は立地している土地の住人が優先であり、住民以外は費用も高く取られるなど面倒なことが増えるケースもあります。
葬儀もコロナ禍だった影響があり、家族だけでひっそりと行う「家族葬」が一時期はほとんどでしたが、栃木県にかんしては、新聞の「お悔やみ覧」を毎日観察したところ、約7割は普通の葬儀を開いていた事も有り、自分も通常の形で葬儀をするという事で、葬儀社を通じて主要な新聞に掲載してもらいました。
実母は自宅で介護状態になってから知人との連絡が途絶えていて、連絡が行き届かないと後日焼香に来られる事となり、それはそれで面倒(汗)なので、出来るだけ通夜と本葬に来てもらう配慮はしておきました。
これで来るかどうかは本人の人徳次第でしょう(苦笑)
喪主のベテラン(苦笑)の自分の見立てでは、限られた親族とごく親しい知人だけでこじんまりとした葬儀を想定していましたが、驚いたのは自分が以前いた職場の元同僚が結構来てくれたことで、人の繋がりは暖かいモノですね。
反対に実母の知人はあまり来ることは無く・・・・失礼ながら同年代の場合その方々も棺桶に片足突っ込んでいるケースも多く、晩年の人間関係について考えさせられる葬儀でした。
◆役場への手続きと相続について
葬儀が終わったからといってホッとできないのが手続き関係です。
基本的に医院などで死亡した場合、「死亡診断書」がでてそれを葬儀社に渡して手続きをいたくして、「埋葬許可書」を役場に申請します。
家族が行うのは、同じく死亡診断書をもって、役場に「除籍手続き」と、国民健康保険の場合、その終了手続きを行います。
年金に関しては「年金事務所」に別途申請を行いますが、おおむねここまでは1日有れば何とかこなせます。
 
で、ここでもお金の問題が出てきます。
死亡した本人の銀行口座などは、新聞などのお悔やみが掲載された時点でロックされてしまうのものでしたが、銀行によってはそこまで手間をかけられないらしく、これは金融機関によって対応が分かれます。
経験者はご存じだと思いますが、「親が死んで直ぐにATMに行って親の口座からお金を落とした」が、常識(苦笑)でしたが、最近は特殊詐欺の影響もあり、ATMも一日20万円以上は下せないので、ケースバイケースですね。
自分の場合これも計画的に(苦笑)以前より必要経費は少しずつ引き出しておきました。
これもあまりに計画が過ぎたようで、入院費用や備品購入、自宅の清掃や葬儀関連の費用など、用意しておいた金額ほぼピッタリの出費でした。
相続に関しては、1銀行の口座や株券など、2不動産、3生命保険、4遺品などの物品に大別されます。
それらは色々な手続きがあって面倒なのですが、公的証明として絶対に必要になるのが、死亡した本人の「除籍証明」です。
宇都宮市の場合は届け出があってから2週間で本人が除籍された「戸籍謄本」が取れますので、これが死亡した公的証明として絶対に必要になります。
あと相続は民法上3親等の親族までが対象に成りますので、それを確認し、相続人との関係を証明する「原戸籍(全部記載)」と、相続者の戸籍謄本、また捺印する印鑑はすべて「実印」となりますので「印鑑証明」がけっこな枚数必要になります。
自分が一番最初に手続したときは、何にどんな書類が必要か全くわからなかったので、市役所の出張所の所員と顔見知りになるくらい、手続き先で「不足しています」と言われて、トボトボと何度も取りに行ったものです(笑)
基本的に相続関係は、同居していて、実子であればあまり面倒な事はありませんが、被相続人に子供がいない場合、先の3親等の親族がすべて相続対象に成りますので、人数が多いほど面倒になります。
また「遺言書」で親族以外に相続を指定された「遺贈」のケースも、遺言書を公的書式にする手続きが必要でこれも面倒になります。
養子が居る場合も、養子は2種類あり、普通の養子の場合、養子先の親だけでなく実の親の相続の権利と扶養の義務が生じますが、「特別養子」の場合、戸籍上に、実の親との親子関係は記載されず「いなかった」事にされるため、相続は発生しません。
まあ普通の家庭の場合あまり込み入った相続にならないと思いますが、そういう事情があるのに、親が遺言状をちゃんと用意して公正証書にしていない場合、結構厄介な事に成ることも少なくはありません。
ちなみに遺言状は本人の「直筆の署名」が絶対条件で、数件出てきた場合は日付けが新しいものが有効になります。
実は我が家の場合、このあたりが非常に複雑で珍しいケースが含まれており、家系も遡ると結構面白い事に成っていたり、まあブログで書けない分量の「やんごとなき」事がありましたから、自分は随分色々と勉強させられました。
もし、これが犯罪絡みだったら、横溝正史著作の「犬神家の一族」のような複雑な人間関係と、肉親同士の「愛憎」が渦巻いていた事でしょうね(苦笑)
相続も肉親であるが故、血が濃いからこそ、それこそ数十万円のお金で大乱闘の末絶縁してしまうほどもめるケースも少なくありません。
此処に不動産が絡むとさらに厄介ですが、自分の場合実母に不動産は無かったので銀行関係と生命保険(受取人に成っていた)の書類をそろえて郵送すればそれでひと段落と言ったところで、今までで一番簡単な手続きに成りました。



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ブログの再開、実母の末期がん発覚と入院まで [雑談]

まだこのブログに立ち寄ってきてくださる方がおられましたら、「お久しぶりです」!

まあ、なんとか身辺整理も進んできて、落ち着いてブログを書こうという気に成ってきました。

昨年8月に実母の末期がん発覚以来、自体が急速に進行していきました。

担当医の見立ては「早ければ年内に」というお話が最初から飛び出して、事実その通りに成り、12月6日に西方浄土に帰らぬ旅に出てしまいました。


その間あまりにいろいろな事が、振り返る暇もなく自分に降りかかり、とにかく平常心を心がけて事に当たってきました。

まあ、自分としてはこの事を振り返るつもりは毛頭ありませんが、とにかく何があったかは纏めておこうという事に成り、長らく休止中のブログの再開と相成りました。


相変わらず長文で無駄にクドイ表現の記述に成りますので、真剣に読んでいただけないとは思いますが、おそらく同じ境遇の方が困っていると察しますので、幾何かお役に立てればと、何があったかを書き綴ってみます。



◆新型コロナと肺がんの発覚・進行について

肺がんの自覚症状として、痰が出るとか胸に詰まりがあるとかは1か月ほど前からあったようですが、コロナの感染をきっかけに一気に症状が進行して、総合病院で検査しようという事に成りました。

固形物が取りにくく、食事が滞っていた事も有り体力が落ちていたのでそのまま入院という事に成り、改めてPCR検査で陽性反応がでたので、まずコロナでの隔離入院が必要になり、2週間の経過観察の入院と癌の精密検査を行いました。

とにかく最初の検査で肺のレントゲンの右下に7㎝程度の癌の影が映っており、ほぼ末期の「ステージ4」は確実視されていました。


しかし、一昨年もコロナ感染の疑いで呼吸器科の医院でレントゲン撮影にわずかに影があり、がんの疑いありという事で血液検査を行いましたが、その時点では「シロ」でした。

自覚症状の件なども考慮に入れると、急速に悪性腫瘍が拡大したことになり、あり得ない事例ではないとしても、余りに早すぎることが疑問でした。

まあ、巷ではコロナの後遺症やワクチンの影響とか色々言われていますが、その他の症状等を考慮すると、実母は確実に免疫が低下していたようです。


◆終末医療の選択

検査入院後、体力がやや回復したので2週間自宅で様子を見るという事で、別の医院で「PET撮影検査」を行い、肋骨に転移が認められた事と、後の検査で肺の癌腫瘍が壊死して右肺全体に癌細胞がばらまかれている事が発覚しました。

その時点で、高齢で体力が落ちているので、摘出も抗がん剤の治療もできないという事に成り、インターフェロン系の投薬も抗体の適合性が無く万事休すという事で、治療や延命措置をせず、痛みだけを抑えて穏やかに最期を迎えるという「終末医療」の方針が決まっていましたが、様子を見てから検討という事で自宅療養を続けました。


◆自宅療養の限界と、要介護認定

実はこの自宅療養が大変で、一応寝たきりでは無いので所謂「下の世話」がないのが唯一の幸いで、何が困ったかと言えば実母の生活習慣の乱れと食事の我儘が強すぎる事でした。

とにかく勝手な時間に寝て、夜中でも起きてゴソゴソするなどで、通常の時間での3食の時間に起きていないときが多く、食事の世話をする方とすれば「怒り心頭」でした。

おまけにほとんど猫のように(苦笑)「気に入らなければ、具合が悪ければ餌に口もつけない」有様で、体の為に必要なカロリーや栄養素を取らなければいけないという概念を持っていない事もあり、固形物が食べられないと用意した流動食を受け付けない事が増えました。


おまけに決められた薬を飲まない事の方が多く、飲んだとウソをついて枕元に隠していたりと、正直何でこんなクズの面倒を見なければいけないのかと、自分の精神崩壊しそうになってきました。


そんな時、我が家のかかりつけ医に、定期的にもらっている薬を取りに行ったときに、実母と自分の様子を見て「このまま息子さん一人での介護は限界で、早急に要介護認定を受けて介護ケアを受けるべきだ」というありがたいアドバイスと、関連部署への根回しをしてくれたので、地元の「包括支援センター」に行き、要介護認定の手続きを進めました。


手順としては、包括支援センターに申し込んで、介護認定の査定を専門の人間に依頼、要介護の等級が決定次第、その等級の援助内容にあった介護プランを、指定された介護プランナーが選定して、各種サービスが受けられるという感じです。

ま、これは悪口ではないのですが(笑)、なにせ「お役所仕事」なので、此方の都合で動いてくれることは無く、事務手続きの手順を順当に踏んだとしても時間がかかることは事実で、必要になるはるか前の段階で手続きを進める必要があり、実は我が家のケースもサービス認定は入院の後に決定通知があり、医療行為の入院の場合介護保険からの支援は無く、要するに「間に合わなかった」わけです。

 

実は3年前に痴呆の症状を拗らせて親子関係が崩壊しかけたときに、要介護を受けようとしましたが、実母が意固地になり認定を受けられなかったという経緯も有ったのですが、この手の話は珍しい事ではなく、介護する家族をとことん追い詰めているんですよ。


さてその後結局如何なる食事も投薬すら受け付けない実母に対して、完全に堪忍袋の緒が切れて、自分自身が介護することを放棄することにしました。

こう書くと自分は余程酷い冷血漢にしか見えませんが、実はここで真面目に自分ですべて解決しようと思い込む事は大変危険で、よくて親に暴力を振るうようになるか、悪くすれば「一家心中」などという悲劇に向かって一直線に成ってしまいます。


まあ言葉通りに放り出す訳では無く(苦笑)、担当医の指示で食事を受け付けなく成ったら入院させてくださいという指示に従ったわけです。

これも困った老人看護あるあるなのですが、家族の言う事はミジンコ程も聞かないくせに、医者のいう事は淡々と従うという、家族からすればウンザリするような親は決して少なくないようです。

 

そして入院前に、親戚と知人に連絡して「本人最後の面談」の段取りを付けました。

ご存じの通りコロナ禍の中、ほとんどの病院は「面会不能」状態であり、お見舞い出来ない以上、入院すれば次に会えるのは良くて「臨終の際」という事に成り、まだ意識があって会話ができるうちに自宅に来てもらって、最後の面会をしてもらいました。


親戚達にも余命が年内という事で説明して来てもらいましたが、当の本人は「ただ風邪ひいただけだし」と強がりなのか見栄なのか、来てもらった親戚が当惑する始末で、特に実弟はお別れに来たのになんだ!あの態度は激怒して帰ってしまう始末で、まあ本当に居るだけでトラブルの面目躍如のフィナーレを飾ってしまいました(苦笑)。

 

入院後はモノが無いと喚くは、夜中に苦しいとナースコールも使わず騒いで個室に強制送還されるはで、ほとんど最後の悪あがきを繰り広げておりましたが。


◆終末治療専門医院への転院

その間も終末医療を行う医院や施設を選定していただき、転院に備えましたが、栃木県で末期がんの終末医療を専門に行っている大病院は「済生会病院」と「国立がんセンター」しかなく、またこちらはもっと重篤な症状、要するに痛みがひどく本人がかなり苦しまなければいけない患者が優先されるそうで、実母の場合そこまでの痛みを伴うことなく、呼吸が徐々にできなくなってくる苦しさがメインに成るようでした。


そこで、広義の終末医療を受け入れているる医院や施設・・・・・まあ口が悪い人に言わせれば「現代の姥捨て山」と揶揄されていますが、治療行為をせず穏やかに最期を迎えるための処置、ハッキリ言えば痛み止めやモルヒネなどを使って、胃ろうや人工心肺装置などは付けず、心肺停止による蘇生処置もしない医院を選抜してもらい、実母の生家のすぐ近くで、通っていた中学校の目の前、更に自分の親の墓地が目の前にあるという場所の医院を、最期を迎えるのにふさわしいという事で選ばせてもらって、そこに転院する事に成りました。


転院の手続きで久しぶりに顔を合わせて・・・というより、おそらくこれが最後の会う機会に成りそうでしたが、此方は手続きで忙しく、特に感慨がわくことは無かったのですが、実母は転院する病院が、自分の両親も入院した病院で、自分の最期を迎える病院であることは理解しており、別れ際は気のせいでなければ目が赤くなっていたと思います。


なんというか話が湿っぽくなってきましたが、実はここからが自分にとってはまさしく「悪夢」で、思い返したくない程の苦労が待ち受けているのでした。


続きます。






 





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