最近地震だけでなく、水害も多くの被害を出して注目されています。
自分の場合「防災オタク」から「防災士」として仕事の一部にもなっていますが、最近「どんなところが安心して住めるの?」という話をよくされます。
まあ、最初からきちんと説明するといろいろな要因があり、結構難しい話になりますが、そうすると「難しい話はいいから結論教えて」となります。

実はこの「模範解答さえ覚えておけばよい」が、防災上から言えば一番いけない事であると、自分は断言します。
ある気象予報士の方も最近の「なんちゃって気象予報士の、意味を説明しない天気予報」にえらくご立腹になっていて、「何故そうなるかという原因や意味が解らなければ、自分で判断することができないから、そんな天気予報鵜呑みにするのは命に係わる」という趣旨の説明をされていました。

先の「どこに住めば安全なのか」も、各種天災、人災、犯罪などのいろいろな要素があって、一言では言えないですし、そういう人ほど不動産屋やハウスメーカーの話を鵜呑みにして、低湿地の埋め立て地の造成地のを購入した挙句、「なんでここは水が溢れると説明しなかったんだ!」と責任を追及しようという方が少なくはありません。

なんて書くと炎上しますかね(苦笑)
で、自分もホトホト困ってていて、面倒になったのこともアリ、先の質問には「近くに古墳や神社や、古民家が多い場所なら比較的安全です」と答えます。
色々な要素がありますが、少なくとも昔から(数百年単位)人が住んでいる場所なら、「何か大変なことが数百年無かったから人が住めるんですよね」という事です。

反対に最近人が住むようになった場所は、何故人が住んでいなかったか?という事に想像を巡らせると解りやすく、「人が住んでいなかったのは、元々人が住むのに適さない事情があったのか、住んでいたことがあったけど住めなくなったかのどちらかもしれませんよ」という説明もします。

物凄い大雑把な歴史の話ですが、日本の人口は記録がある平安時代辺りから江戸時代までは緩やかに上昇していますが、江戸幕府成立後上昇率が上がります。
これは、幕府も各藩も、財政基盤である「米の生産量」を上げるため、野山を切り開き、河川を改修し、湖沼を埋め立てて「新田開発」が進んだためです。
続いて明治時代に人口の上昇率は急激に上がっていますが、これも当時の政府の「富国強兵」政策の一環として、戦力=人口ですから、あわせて居住地を広げていったという事になります。

つまり、江戸時代辺りから新しく住み始めたところは、それまでの日本の歴史でいえば「何らかの事情で人が住むのに適さなかった場所」ともいえます。
そこに「観測史上最大」の降水量が振るとどうなるのかというと、少なくとも明治、昭和、平成と安全に居住できたところであっても、治水システムは「過去の判例」に従って作られたものなのですから、水が溢れないと考える方が、「虫の良い話」とは言えないでしょうか?

しかも大都市や大きな一級河川ならともかく、地方の中小河川の場合、そこの堤防など、江戸時代や明治時代に作られたものを、細々と改修しながら使われているという物も少なくないそうで、そこで今回の台風19号のような降水があれば、「容易に越水して、堤防が決壊する」という事に成っていいるとも言われています。

そう考えると、今居住している場所の「絶対安全」を保つためには、莫大な予算と、遠大な計画、深い想像力が必要になる事は想像に難くありません。
これは、今回の旅行で見てきた、静岡県の伊豆半島の付け根にある「狩野川放水路」です。


これは1958年(昭和33年)9月27日に神奈川県に上陸し、伊豆半島と関東地方に大きな被害を与えた「狩野川台風」の対策の為に作られた、狩野川で溢れた水を、なんと山をくりぬいて半島の反対側の場所に流すための放水路です。
普段は水など流れておらず、おそらく作られてから本格的に稼働したことは数えるほどかもしれませんが、今回の台風19号も、この放水路のおかげで狩野川が氾濫しなかったといわれています。

これと同じ話は「ダム開発」や「スーパー堤防」でも今回クローズアップされて、巨大治水プロジェクトの正当性を示すものとして語られています。
ただし自分はこれをして「巨大利権の温床で、誰かの懐が潤う」ための公共事業であるのなら、断固反対します。
また、これは津波の後の、「津波堤防」建設でも地元で議論されたことですが、まず一つは「どんなに巨大な津波が襲ってきても、絶対大丈夫な対策をして沿岸沿いに居住する」という考えと、「想定外の災害に湯水のように税金を使うのは無理があり、最悪は水が溢れるかもしれないけど、最低でも住民の命を確実に守り、資産の被害は最低限に抑える土地利用計画に柔軟に対応する」という二つの考えがあり、これはどちらが「正解」という事はなく、最終的にはそこに住む住民が決めなくてはならない事になります。

自分はと言えば、まず危ないところにはす住まないことを基本に、もしそういう所にいなくてはいけない場合は、「とにかく逃げる!」に徹します。
例えば、もう危ないと解っているのなら、地震による津波もそうですが、洪水などは気象情報で降雨量や警報関連を常にモニターし、国土交通省の河川情報も見て、「避難勧告」など出る前から、別に行政指定の避難所などは行かず、自分で安全なところをチェックしておいて、決められた持ち出し品を車に詰め込んで、移動できるうちにとっとと逃げ出している事でしょう。

しかし、これはもしかすると、「不動産」や「固定資産」という物で、従来からの考え方が根底から変わってしまう可能性もあるのではないでしょうか。
我々は、その場所に安心して暮らせるからこそ、そこに「定住」して、そこの土地に経済的な価値があるから「固定資産」として財産を保有して、そして「課税」対象として税金を払っているわけです。
これは国家成立の基本中の基本の話であり、その「絶対性」が保証できない国家に対して、国民がホイホイと税金を払うわけもなく、故に「治水」は国家存立のための重要事項として進められていたわけですし、例えば国家というより個人崇拝と体制を維持するために軍事費偏重の財政運用をして、一切の治水を怠った結果として、作物もできない、人も住めない土地が広がる国家になった近隣国家がありますが、ああなってしまうわけですね。

最近「国家百年の計」をここぞとばかり保守系の政治家や論客が騒いでいますが、「何が、誰の為に、適切な、百年の計」なのかは、各々がより深い思慮と決意をもって、次世代の人たちに後ろ指を指されないように選ばなければ、いけないのかもしれませんね。