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ブラックどすこいライダー参上!悩もうが先に進め! [雑談]

なかなか言いたいことが言えないというのはストレスが溜まるものです。
自分も最近ようやく大人に成ったので(苦笑)、慎重な発言が出来るようになりましたが、基本的な人格や思想が変わっているわけでは無いので、うーんストレスが溜まるわー!!
という訳で年に2回程度行う恒例の「ブラックどすこいライダー、毒舌で世相を切る!」開催です。

1、オリンピックなんか大嫌いだ!
これは前から言っていますが、金メダルを頂点とする「勝ちの総取り」的な近代スポーツ自体が自分は大嫌いで、それをして「平和の祭典?片腹痛いわい!」と常々苦々しく思っています。
もはや金メダルという物に付随する既得権益や、名誉欲、金銭欲そのものが人生の目的に成ってしまっているので、当然のことながら「自らを鍛錬して努力した結果の栄誉」では無く「いかなる手段を用いても手に入れるべき栄誉」という輩が増えてしまう事は当然の結実と成ります。
要するに、「ドーピング」などという物の背景でもありますし、また他人に嫌がらせをしたり陥れたりして候補から外そうなどという輩が、当然のように出てきてしまう背景であるとは言えませんか?
自分は綺麗事をほざく輩が大嫌いで、所詮勝負事と成れば、「勝つ為に手段は問わない、勝負するのなら勝たなければダメ!」という現実は理解していますし、それがこの世の常識でもあります。
そういった現実を教えるために、厳しい現世を生き抜くために勝負事の厳しさを教えるという意味での現行の勝利至上主義のスポーツ教育が有るのなら容認しますが、自分は特に青少年の教育の為のスポーツという物は、もっと別の意味を持っていると思っている「青臭い」クソジジィなので(苦笑)、ご勘弁を!

2、「皆の大好きな相撲」と「国技の美名に隠れた既得権益と醜態」を切り離そう
自分も相撲は嫌いではありません。
多くの人達が楽しんで見ていますし、日本由来の相撲道(スポーツとは言いたくない!)の良さも有ると思っています。
しかし、それと繰り返し蒸し返されて、必要以上にクズマスコミの餌として扱われる「相撲協会がらみのドロドロとした痴話喧嘩」を見せられることに我慢がなりません。
国技として文部科学省の予算、つまり「税金」が使われている「事業」として、これは本当にふさわしいものと言えるのでしょうか?
TVに出てくる「相撲審議委員」と称する、上から目線の浮世離れしたような「特権階級」の態度も気に入らないでしいですし、そもそも相撲界での不祥事の数々は、TV報道で見る相撲関係者が乗っている黒塗りの高級車の数々を見るに至り、「ああいう権威主義の権化の様な車を好んで乗るような連中だからこうなるんだ」と思わざるをえません。
とにかく下町にある某相撲部屋に書類を届けるのに、黒塗りのセンチュリーで登場するような、度を外れた非常識をするような連中である以上、彼らが自助努力で内部統制を取り戻して、本当に国民の為に神聖な国技を「一部の人間の食い物」でない相撲界にすることはできないなぁとしか思えませんね。
うーん一般庶民の僻みとしか聞こえませんかねぇ(苦笑)

3、路は一つに非ず平坦に非ず先は見通せず、それでも前に進め
なんだか、最近同年代の上下5歳程度の幅の方々で、「ええっ!、この人が心を病んでいるの?」という話をよく聞くようになりました。
そういう人たちは「こういうタイプです」とひとくくりに出来ない、色々な性格の、色々な立場の人達であり、何故そうなってしまったのか、また何故そんな人が多くなっているのかという事に対して、「こうである」という断言はできません。
ただ、これは自分が見知った例に限りますし、一例として聞いていただきたいのですが、まず一つは、「大きなリスクにしり込みして先に進もうとしない」タイプの方々です。
言い方がイジワルかもしれませんが、「こそこそに頑張って、そこそこに平和に生きてきて、そこそこに不満を持っていて、そこそこに反骨精神が有るけど、大きな障害にぶつかるつもりも、必要以上の努力もしようとしない」と見受けられる生き方の方々が、原因は様々ですが、ある悩みが「デットエンド」に達すると、自分でそれを突破できなくなり、その時期がたまたま中高年に成ってしまい、心の迷宮から抜け出せないようです。

もう一つのタイプですが、これは「意思や欲望は強く、自己実現能力も高い人間なので、多くの事を成し遂げてきた反面、周りを見る事が無く、心の余裕もなかったため、ある日自分の価値観が完全に否定されたり、自分が踏みつけにしてきた周囲の悲しみや憎悪を知ってしまったとたんに、立ち直れなくなってしまう」人達なのですが、これも少なくありませんし、こういうタイプだと本当に周囲は「えっ!あの人が?」というイメージのギャップが大きくなったりします。

二つのタイプに共通して言える事なのですが、恐らく彼らの基本的な性格や思考パターンはかなり幼い時期に形成されているハズで、人によっては、未成年のうちにデットエンドに至って、それが「引きこもり」で有ったり「イジメ」にあったり、自殺してしまうという本当に人生のデットエンドを迎えてしまう不幸な人たちもいますが、中高年の彼らの場合、この場合不幸な事に人生の折り返し地点を迎えるまで、「極限に至らず乗りきれてしまった」ので、まだしも色々な意味で未完成な未成年のうちなら根本的な修正が可能であったはずなのに、すでに半世紀にわたり「拠り所としてきた自分」が出来上がっている時点での「進路変更」が非常に困難であるという事なんです。
更に厄介なのは、既に家庭においても社会においても責任ある立場にあることが多いわけですから、それだけに本人が大変である以上に、周囲非与えるダメージも非常に大きくなったりしてしまう事です。

話は変りますが、言い方は適切ではない事は重々承知のことながら、まだ心を病んでしまう人はある意味マシな方で、さらに我々の上の世代の場合は、そういった余人に迷惑をかける性格や考え方を正当化して、墓に入るまで周囲に悪影響を与えてしまう「有害指定老人」が非常に多い事です。
例えば痴呆に限らず運転する能力が無いのにもかかわらず、「自分が自由に移動する事と、運転できるというプライドを捨てきれず、周囲の反対を押し切って運転し事故を起こす老人」などが当てはまるのかもしれません。

話を元に戻すと、自分は精神医学やカウンセリングの専門家でもなく資格も有りませんから、こうしたらいいですねみたいな話は出来ませんが、自転車乗りの一人として一つの事例はご紹介できます。
自分はツーリング先で色々な方とお話しする機会があるのですが、最近増えてきた、年配者のライダーの方とのお話で、特に定年後に自転車を始めたという方々に多く聞く話として、「自転車に乗って長距離を走るようになってから人生観が変わった」という話は、大げさでなく何回も聞いています。

自分も実感している事ですが「自転車のロングライドは人生と同じ」という話があります。
例えば「佐渡ロングライド」の自分の参加事例で話しますが、お恥ずかしい話、参加を決意いするに至る「きっかけ」の大事件が有ったりして(苦笑)、何かを変えようと、何かが欲しくて参加を決意したりしします。
そして「210km」を走りきるための身体的な能力、体重等を調整するために、それらは半年前から準備が始まり、イベントにエントリーして、フェリーを予約して、宿を予約して、予算を確保して、スケジュールを調整して、装備を整えて行き、体調を調整して天候に恵まれて、自動車とフェリーを使い現地に着いて、初めてスタートラインに立つことが出来ます。
実はこの時点でイベントの成否は80%は決まったりしていますが、当日の体調や天候、周りの状況、によって作戦通りに進行しない事も多く、走行中に体調を回復させたり、気温の上下に悩まされたり、パンクしたり、時には機材トラブルでリタイヤしてしまったりと、走行中のドラマにも事欠きません。
で、そういった数々の課題や困難をクリアして、初めてゴールラインを切り完走することが出来るのですが、その時の充実感や達成感は、言葉に出来ないものがあるんです。
これが仲間と一緒ならその喜びを共有できるわけで、また一塩の充実感を得られます。

大げさな話では無く、自分は「人生のゴールラインを切った時に、自転車のロングライドイベントを完走できた時の様な充実感を得たい」と思うようになってきました。
その為の明確な方法や、到達すべきゴールが見えているわけでは無いのですが、「路は一つに非ず平坦に非ず先は見通せず、それでも前に進む」とは、サイクリスタなら皆言葉にしなくとも分かり合える共通意識だと思っています。

と此処まで書いてあまりに生意気な話ばかりで顔を真っ赤にして頭の先から湯気が出るほど恥ずかしいのではありますが(苦笑)、これをもってして、おかげさまで必要以上に心を病んでしまう事に至らず、先が見通せなくとも困難が有っても、「とにかくに先に進むしかない」と現実的に対処できるようになったのだと思っていて、本当に自転車の世界に出会う事が出来た幸運に感謝しているのです。

ただ、誠に残念ながら心を病んでしまっている人達は、心を閉ざしてしまっている事がほとんどであり、いくら周囲が手を差し伸べても、本当は自分の周りに立ち直れるきっかけが有ったとしても、本人が心を開かない限り、なかなか気が付いてくれないものなんです。
自分はある意味非常に冷たい人間ですので、個人の問題に、個人がやらなければいけない事に必要以上関わろうとは思いません。
これも自転車あるあるですが、とにかく本人がペダルを回さない限り誰が回してくれるわけでもないので、自立して前に進むことが出来ないのが自転車だからです。
倒れている人を助けて起こしてあげて、自転車を直して怪我を治療するまでは手を差し伸べる事が出来ますが、そこまでなんです。

本当に多くの同年代の同輩達や先輩や後輩たちが自らペダルを回すことをやめてしまっている事に、本当に心が痛みますが、本当に冷たく言いますが何も特別優秀な人や特別に心が強い人だから力強くペダルを回しているのではなく、あなた達と同じか、もしくはもっと弱い心や気持ちと正面から向き合う勇気を出して努力したからこそ、ペダルを回し始める事が出来たわけで、それが出来ない理由は自分には見当たらないので、やはり個人の問題としか言えなくなってしまうんですね。

だれもが、ロードレーサーに成ってツールドフランスの総合優勝を目指しているわけでなないので、その人なりの考え方で、その人のペースで、誰と競うことなく、虚勢を張ることも無く、何より自分自身を見つめる事で、
自分と対話しながら、弱い現実の自分より少しだけ強くなった自分を目の前に置いて目標にしながら、多くの悩める人々に、ゆっくりとペダルを回し始めてほしいと思います。


タグ:悩める心
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流石にこの寒さに堪らず!、通勤MTBにもハンドルカバー装着 [自転車部品]

確かに寒いのは間違いないですが、自分が子供の頃はこのくらいの寒さは当たり前だったように記憶しています。
家屋の断熱などという概念が無かったころの、昔の木造住宅などは、枕元に置いたコップの水が朝起きたら氷が張っていたとか、水道が凍って朝起きるとヤカンで沸かしたお湯で溶かして水を出したなんてことが当たり前ではありました。

本日も市街地では-4℃、郊外は-5~6℃程度まで下がっていますが、空気が澄んで山がきれいです。
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この状態でも自転車通勤を続けていて、防寒装備さえしっかりしておけば、片道10㎞を30分程度の通勤はそれほど辛くは有りません。
とは言え自分の場合手先は別で、ちゃんとした自転車用の防寒ロンググローブを使っていますが、毎日使っていると結構ダメージを受けて劣化していくのと、通勤時間がだいたい最低気温の時間帯なので、会社に着くころには指先の感覚が無くなっている有様で、もうこれは堪らんと、ロードバイクで有効性が実証されたハンドルカバーを通勤用のMTB「GT改+」にも装備することにしました。
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これは「マルト」のフラットハンドル用のハンドルカバーで、国産の物ですが、ロード用に付けている外国製の物の半額程度の実売価格で販売しているモノです。

実際これで通勤しましたが、ホームセンターの安売りのグローブでも、十分に手先は温かく、保温性に関してはもくろみ通りの保温性は確認できました。
使用感は自分の手の大きさだと若干窮屈で、開口部が狭いので手の出し入れはやりにくい感じで、ハンドサインは出しにくく、トータルで言えばレビュー風に言えば★3.5点という所ではありますが、とりあえず目的は達成している感じです。


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